島根 三枝子 Blog
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我が家には私たち夫婦と若者が二人いる。ひとりは週末になると現れる。
彼らたちは昼ごろ起きる。お風呂に入ると言ってから、1時間。
出かけると言ってから、1時間。
何をするにも時間がかかる。
私たちは今まで学校生活が終わったら、就職するのが当たり前で、社会人となった。
そして何をするにも、ある程度の段取りをするのがあたり前だった。
時間を満つに使うのもあたり前だった。
今思うと時間を使うのではなく、時間に使われていたのだろう。
社会の流れに乗り、それなりに走ってきた。
あくせく生活してきた。
そして、今、寿命が延びて自由に使える時間がたくさんできた。
体力も気力もある。
戦後、豊かさと自由を求め、走ってきた私たちを見て、彼らは何を感じているのだろうか。
人生にはたっぷりの時間があることにも気がついているだろう。
計画性とか、経済性とかよりもっと楽しむことを知っているだろう。
時間は自分のものであることを知っている。
恥ずかしながら、時々私は自分の固定観念、価値観でイラつくこともある。
冷静になり受け入れると、違いは実におもしろい。
私たちが教えてきたことはなんだったんだろう。
きっと彼らは自ら感じとってきたのだろう。
けれどもあれもこれも、私たちが背中で見せてきたことなのかもしれない。
何気なくテレビのスイッチを入れた。
真っ白に凍てつく岩肌から、
激しく流れ落ちる滝に、
身を投じている姿が映し出された。
滝に打たれ、般若心経を唱え、無心になろうとしている。
辛さを耐えて修行をしている姿は、こちらまで苦しくなる。
ふと、浮かんだのはイジメにあっている人のことだ。
あの身を切るような、激しい滝のように、
言葉や暴力に打たれているに違いない。
けれどもそこには大きな違いがある。
修行とは自らするもの、イジメは逃げたいけど逃げられないのだ。

私たちは生きていると、
望まなくても身の回りにさまざまなことが滝のように起こる。
修行を否定はしないが、これもまた修行だと言えないだろうか。
今、年を重ね、思うことは、
すべて今まで身に起きてきたことは修行だった気がする。
すべてのことに正面から向き合い、
自らを滝に討たれたような気がする。
楽しいという感覚より、
辛いという感覚のほうがなんだかしっくりいく。
今は、日々を緊張とともに生活することが修行と思ったいる。
これが私にとって、生きることだからだ。
我が家の玄関ドアは木製です。
今日は寒かったのですが、
頑張ってワックス塗りをした。
毎週のように手を入れているので、
とてもしっくり馴染んでいる。
決まった仕事をやめ、もうじき1年になる。
煮物は朝からする。味が染みて夕食にはおいしくなる。
朝食もとるようになった。生活がゆったりとし、生き返った気がする。
朝は必ず、仕事へ行く彼を門の外まで送る。
夜遅い息子の食事の支度をし、一緒にお喋りをする。
相手に合わせた生活がある。
それ以外私の時間、私の気分ペースでことを運ぶ。
そんな生活が苦にならない。むしろ淡々とできる喜びがある。
「家族のため、自分のため」といっためんどくさい事ではない。
理屈ではない。それが私の生活だから。
この年になって、やっと生活することがわかってきた。
心が充分自由になったからかもしれない。
玄関ドアは人を待っている。おかげでぽかぽかになった。
我が家から歩いて、最寄の駅へ行くには何通りかの道がある。
海沿いの道、住宅のある道、お花畑を眺めながら行ける道などがある。
私は選べることにとても喜びを感じている。
そんな道の中でも一番好きなのが、路地風な道だ。
わずか50メートルほどの短い道。
しかも幅は1メートルほどしかない。
片側はブロック塀、もう片側は板塀だ。
塀はどちらも2メートルほどの高さで、
そこを通ると囲まれた感じがするほどだ。
自転車が来ると、通り抜けるまで待たなければならない。
たくさんの荷物を持っているときも待つ。
大きな人が来るときも待つ。雨のときは大変だ。
高く掲げるか、つぼめなければ通れない。でもこの道がいい。
そこには挨拶が生まれるからだ。
「お先に」「お待たせしました」
「ありがとうございます」「どういたしまして」
学生はちょこんと頭を下げる。子どもは走って通る。
なんだか心が和む。
暖かいものが通い合うような気がするのは私だけだろうか。
そこで人に出会ったときはうれしくなる。
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